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前回は「アキバ事件」に言及したが、身勝手な恐ろしい風景はやむことがない。先月のテレビはアキバの献花台の様子を
とらえていた。
真夜中の献花台の前をウロウロする人たち。お供え物の果物や菓子をポケットに次々に突っ込み、ビール缶は自転車の籠にいれる。いっぱいになるや自転車の
男は信号無視して夜の闇に消えてゆく。 しばらくすると、今度は両手に紙袋をさげた男が献花台の前を行ったり来たり。男はお供え物の中からたばこを持ち去ろうとした。それを咎めると男は言った。
「仏さんが飲んだと思えばいいじゃないか」。そして挙句の果てに「返せばいいんだろ、返せば。バカやロー!」の捨てゼリフ。 翌日の夜は銀座のホームレス男がやってきた。「腹が減ったから…」と悪びれるところがない。問いただされると「警察でもどこでも行くよ」。そして
ついには「こんなものいらねーよ、持っていけ!」とくる。 犠牲になった人たちに手向けたものを盗み取るという厳然たる事実を前に、人の命をどのように受け止めているのか、恐ろしい風景だ。
人の命といえば、命そのものをゲームに仕立ててしまった恐るべき女高生の集団がアメリカで明るみに出た。一部の新聞が報道(6月22日付け)したので
ご存知の方もあろうが、マサチューセッツ州グロスター市の高校で、女生徒のグループが一緒に妊娠、出産し、育てようとの“協定”を結び、17人が妊娠した
ことが発覚したのである。 半数が14〜15歳であり、相手の“父親”は同級生のほか20代のホームレスもふくまれているという。「彼女たちには(子育ての)目的も方向性もなく」
(同市教育長)、仲間内の遊びがエスカレートした可能性が大きいとみられている。この“性の遊び”が米社会に衝撃をあたえているのは言うまでもない。
このニュースに接した時、高校生のケイタイに「死ね」という言葉が狂気のように乱舞しているのを垣間見て慄然としたのを思い出す。そしてこの時、
もう一つ気になることがあった。それは若者のこうした感覚に、妙に理解を示そうとする大人たちがいるということだ。彼らは「そんなことに神経質になる
ことないよ。『死ね』という言葉それ自体、ケイタイのメール画面のうえでは単なる遊びの記号にすぎない」と言うのだ。 「死」は「生」につながり、さらに「命の尊さ」へとつながってゆく重い言葉だ。ゲームや遊びの言葉として大人はそれを許容してもよいのだろうか。
そうした大人たちと少年少女が迎合し合いながら、ドロ沼に足をとられてしまっては、これまた何とも恐ろしい風景である。 私たちはアメリカの事件を対岸の火として興味本位に伝えるわけにはいかない。遊びの延長線上に“出産協定”をむすぶという発想はケイタイの遊びの
伝達の奥に「死ね」が乱舞しているのと五十歩百歩だ。ともに「命」を遊び道具にして何の疑いも懼れも持たないのである。 そしてその時、彼らに「一部の大人たち」が生半可な理解の手を差し伸べようとするなら、これまた身勝手な風景を醸しだすのではないだろうか。
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