待合室
2002年6月25日
 
コラム【待合室】は、
病院の待合室という特殊な空間に身を置いて「医療」を眺めています。
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 安楽死と尊厳死 日本の医療ではグレーゾーンになっている問題をクローズアップした事件がこの春、明るみに出た。川崎の「安楽死」事件(98年11月)。この事件は「延命治療の中止」ではなく「為すべき治療行為の中止」と言うべきであるというのが大方の意見。安楽死は医師が積極的に手を下して死なせることであり、延命治療をしないことで患者が亡くなる尊厳死とは基本的に異なる。峻別しなければならないこの境界は人の命を見据える者には見えているはずである。医療の最前線で生と死に向き合って仕事をする人たちの死生観が問われる。
 
 尊厳死の判決 川崎の事件を契機に医師がグレーゾーンから腰がひけてしまうとなれば、これまた人の命を見据えることを放棄したのと同じだ。川崎の事件とまるでタイミングを合わせたように、考えさせられるニュースが報じられた。英高等法院が障害の深刻さ(脊椎部の血管破裂で全身マヒ)と本人の思いとを根拠に尊厳死を認め、倫理上の問題を理由に人工呼吸器をはずすことを拒んだ病院に「人権侵害」の賠償金支払いを命じた。判決に言う。「深刻な障害を持つ人のなかには、生きることが死ぬことよりも辛いと感じる人がいることを、誰も否定できない」。
 
 1%の驕り これまた人の命を見据えずに、単なる開発プロセスのなかでしかいのちを捉えられない人たちをめぐって――。世界初のクローン羊「ドリー」生みの親が、すべてのクローン動物には何らかの遺伝的異常が頻発するという調査結果をまとめ、クローン人間は作るべきではないと警告した。神の領域まで入り込んだ科学へのしっぺ返しである。それにつけても、人とチンパンジーのDNAの違いは、1.23%である(理研)というが、99%は同じ遺伝子を持つチンパンジーを尻目に得意気に技術開発を進めてきたあげくがこれだ。自分の恣意で人の命を勝手に作るなど驕りの最たるものである。
 
 驕りと痛み 驕りとは人の痛みを知らぬ愚考の極みである。ここでは次の三人の言葉を引用しておく。
 天才ピアニスト、フジ子・ヘミングさん「どんな教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものがわからないから」(「魂の言葉」)
 開業医の浜田晋氏「医療は一個の人格をもった人間を、対象化し、そこから『病的な症状』を抽出しようとする。その過程で『患者』を傷つけていることへの医者の反省はない。痛みがない」(「老いを生きる意味」)
 日本で医博を取得したバングラディッシュの医師、スマナ・パルア氏「人間には、レントゲン写真や検査数値には現れにくい無数の『痛み』がある。その『痛み』をわかろうとする過程が医療行為であり、注射や点滴は技術の一面にすぎない」 (朝日新聞「私の視点」掲載)

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