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古事記は謎が多い書物だという。そもそも文字を持たなかった古代の日本人が口伝によって言い伝えられてきた事柄を漢文という
外国語で書き記したわけだから当然といえば当然である。稗田阿礼が何者で、そのとき太安万侶がどんな考えで書き記したのか、本当の
ところは誰にもわからない。しかし、わからないからロマンが生まれ、そこに想像する余地が与えられる。これが古事記全体を流れる大きなエネル
ギーとなって読む者に何かを伝えようと語りかけてくるのではないかと思う。
「なにもなかったのじゃ……、言葉で言いあらわせるものは、なにも。あったのは、そうさな、うずまきみたいなものだったかいのう。この老いぼれはなにも
聞いてはおらぬし、見てもおらぬでのう。知っておるのは、天と地とが出来てからのことじゃ……」と、古老の語り部によって始まる口語訳古事記(三浦佑之著
・文芸春秋)は、とくに親しみやすい秀作だ。歴史の知識がほとんどない私でもじゅうぶんに楽しめる。
この本の著者で国文学者の三浦佑之さんによれば、「そのように語られることによって、地上世界は確かに誕生し、あらゆる神がみに守られた豊かな大地として
人びとの生活を育む場所となる。人は『青人草(あおひとぐさ・青々とした人である草)』と呼ばれる草だから、冬には枯れて死ぬが、春になると大地から芽吹く
草と同じく、人は新しい生命を生み継いでゆくことができる。人間の生と死が循環する草として認識されることで、人が地上に生きることの揺ぎなさを確信する、
それが神話を語ることの意味であった」と、語り部の話として始まる古事記神代篇の冒頭部分を解説されている。
冬に枯れ、春に芽吹く葦草と同じように人の命も大地から萌え出すというのは、静かだが実に力強い表現だ。これこそ自然と物質経済との調和を追及しながら、
発展してきた日本人の根っこにある生き方なのかもしれない。
一方で、今日の医療社会に目を向けると、行過ぎた不妊治療や延命治療に患者も家族もふりまわされる事例を目にする。私たちはどこか命の誕生を軽んじては
いないだろうか。また同時に「死」を必要以上に恐れ、忌み嫌ってはいないだろうかと、そんな反省の念に駆られることさえある。
古事記という壮大な叙事詩が持つエネルギーは、私たちを立ち止まらせ、いま一度原点に戻してくれるような、そんな魅力を持っているように感じる。今年は60年に
一度の「乙羊(きのとひつじ)」の年という。羊のように、前を行く者の足元ばかりを見ていないで、そろそろ頭を上げて前を見据え、自分の考えで歩き出したい
ものである。
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