2012年11月15日
 
コラム【待合室】は、
病院の待合室という特殊な空間に身を置いて「医療」を眺めています。
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 ★自分の最期は自分で決めたい人が増えている
   

 介護苦で一家心中の悲劇の主人公などにならないためにも、尊厳死を選びたい。だが、事はそう簡単にはいかないのである。 「尊厳死」は医師が薬剤を投与するなど、積極的に手を下して患者を死なせる行為である「安楽死」とは基本的にまったく異なるものである。 「尊厳死」は不治の病で回復の見込みがない時、延命治療を控え、あるいは中止してもらい、人間としての尊厳を保ちつつ死を迎えることで ある。

 自身の尊厳を保つためにも、胃ろうを増設してまで、植物状態を続けることをきっぱり拒否する人もいるだろうし、人工の呼吸器など生命維持装置を取り外し たいと思う人もいるであろう。とはいえ、認知能力が失われてからでは、その主張を確かめようがないので、いきおい、現場の医師は判断に苦しみつつ、つい 胃ろうを造設することにもなってしまう。

 そこで提案がある、と次のような考えを医師の木村範孝氏(元介護老人保健施設長)がすでにこんなことを言っている(朝日新聞「私の視点」欄・08年5月)。 それは国民全体がいつかは必ず迎える終末期にどのような治療をしてほしいかの意思表示を、若いうちから文書化して登記しておくことにしたらどうであろうか、 ということである。

 実はこのいわば患者が医師らとの対話を通して、方針を決めておく取り組みは米国で生まれ、その仕組みは豪州で02年に始められており、米、英、香港などの 病院でもその活用が広がっている。それは「ΑСР=アドバンス・ケア・プランニング」という考え方で、「患者の意思決定支援計画」と訳され、「良い死」とは 何かを考えることなのである。痛みがなく、苦しまず、望む場所で最期を過ごし、家族を重荷から解放する。これらの条件を満たすのが「良い死」であり、ΑСРは 言うなれば、これらに近づける手段である。

 ΑСРとは、結局は死生観につながっている。「“自分の最期”を決めるのに、もっとも重要なのは本人の意思である。必要な情報をわかり易い表現で患者に つたえてΑСРをつくり、本人の思いを実現する」との思いから、国立長寿医療研究センターは近くΑСРを導入する予定であると、同センターの三浦久幸・ 在宅連携医療部長は語っている(朝日新聞12年10月)。


 日本人の死生観も変わりつつある。自分の最期は自分で決めたいという人が増えていることは確かだ。そして病院で機械につながれて、「死ぬに死ねない患者」を みるのは心が痛むばかりである。だからといって、現在の法制度では治療してもすぐに死亡すると予想される場合であっても、医師が治療をやめれば刑事責任を 問われかねないのである。

 先述したように、一定の要件がそろえば延命治療の中止は許されるべきであろう。これが尊厳死なのだが、社会的コンセンサスがないまま延命治療を中止すると 刑事訴追される恐れがあることから、慎重論がうまれる。

 ということで、延命知療中止の際のルール作りが求められているのだ。現に「終末期の患者に延命処置をしなくても医師が刑事や民事上の責任を問われない」と する素案はすでにまとめられ、超党派で国会に提出されるばかりになっていたのだが、簡単に見送られてしまった。

 では次の国会で、と期待するのだが、まるで烏合の衆と化した国会のセンセイたちは思惑ばかりが先走って利己・保身に右往左往し、先月29日から開かれた 「週明け国会」(第181臨時国会)でもさっぱりなのである。

 繰り返すようだが、自分たちは家族を苦しめたくないので延命治療をのぞまない。だが現場では「延命」をめぐって揺れているのだ。これを解決するには尊厳死 を法制化するしかないのだが、今どきの国会のセンセイたちの“ていたらく“を見ていると、溜め息をついているしかないというものか―。

 
 
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