2012年7月15日
 
コラム【待合室】は、
病院の待合室という特殊な空間に身を置いて「医療」を眺めています。
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 ★終末期医療を包み込む“みすゞコスモス”
   

 昨年も何度か取り上げたが今年もまた終末期医療を考え、幸せな人生の終幕とは何かに思いをはせてみたいと思う。
 折りしも朝日新聞が老年医学会と共同で、高齢者の人工栄養への実態を探った(6月24日付)。この共同調査でわかったことは高齢者医療を担う医師の2人に 1人が過去1年に胃ろうなどの人工栄養法を途中で中止したり、最初から差し控えたりした経験があるという数字が出たことだ。そして「中止」については39%が 「(法的責任を問われるとの)不安は残る」と考え、40%は「法的な整備も必要」と答えた。
 高齢者がいよいよ口から食べたり飲んだりできなくなった時、家族は決断を迫られる。その決断とは胃ろうをどうするかということだ。
 言うまでもなく、安楽死と尊厳死とは基本的に異なる。医師が薬剤などを投与するなどして、積極的に手を下し、患者を死なせる行為を安楽死というが、延命 治療などしないことで患者が亡くなる尊厳死とは基本的に異なる。安楽死は日本をはじめほとんどの国で認められていない。医師の独断を防ぐ体制を確立すべき であろう。
 「胃ろうと人生の終幕」をめぐって朝日・耕論欄(4月18日付)はこう報ずる。「死生観、医学に解はない」と、意思決定支援ノートを作成した清水哲郎・東大 特任教授は断言し、「胃ろうを家族が使いこなせるなら、価値が見出せる」とは、祖母を自宅で看護してきた人形作家・宮崎詩子さんの吐露。「最期は自分で決め ておく」とは、胃ろう造設に疑問を抱く医師・中村仁一氏の言葉だ。筆者もまた、胃ろうで生命を永らえるのをよしとせず、安易な安楽死を終幕のものにしたくは ないのである。
 そんな時、生命(いのち)へのやさしい眼差しを金子みすゞの珠玉の詩から感得していくその先に、人生の終末をきちんと身につけることが出来るであろうか。 みすゞファンの筆者はそう思うのであるが――。
 偶々「金子みすゞ物語」(TBSテレビ7月9日夜9時)が放映されるのを知ったが、「老年医学会」と「金子みすゞ物語」が前後して登場してくるのは単なる偶然 かもしれないが、両者を同時に取り上げてみたくなるのはなぜだろうか。何はともあれ、かねてから心に深く刻み込まれてきたあの“みすゞコスモス”の空気に 触れたくなり、みすゞの故郷・山口県長門市仙崎へと旅に出たのは7月2日だった。
 前日は門司港レトロの街並みを満喫したあと、山口県に入った。山陰観光列車「みすゞ潮彩」は毎日2往復運行されていた。阿川駅から長門市駅まで列車を 楽しみ、このあと仙崎の町並みを歩いた。こうして矢崎節夫氏が名付けた「みすゞコスモス」に全身を共鳴させるのであった。
 震災後一挙に注目された童謡詩人の作品の数々。それは昨年3・11の東日本大震災に直面し、初めて多くの人々が気付かされた日常の尊さ。しなやかに・軽やか に言葉を紡いでゆく、類まれな才能はそれまで当たり前すぎて見過ごしてきた大事なことを誰にもわかる言葉で表現してくれる。そして、その視点が多様化して いるのも、みすゞの詩の特徴でもあった。震災前からみすゞの詩を講演会で紹介し続けてきた群馬・吾妻町の僧・酒井大岳さんは「彼女は人が自然の中で生き、 生かされていることを軽やかにうたう」と指摘する。こうしてみすゞのやさしい眼差しはいのちの尊さを人々に静かにかたりかけることにもなって、いうなれば 「みすゞコスモス」は終末期医療の心のよりどころにもなっていると思われてならないのである。

 
 
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