2011年4月15日
 
コラム【待合室】は、
病院の待合室という特殊な空間に身を置いて「医療」を眺めています。
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 ★3度目の奇跡を成し遂げるために
   

  近代日本は明治維新と戦後復興という2度の奇跡を成し遂げた。だが、このあと未曾有の大震災と原発事故という凄まじい 複合試煉が襲った。ここで日本は3度目の奇跡を実現出来るかどうか、試されることになったのである。

 第1の奇跡だった明治維新は鎖国・島国が開国・文明国の仲間入りをする国の命運を賭けた見事な変身だった。そして第2の奇跡は原爆の惨禍と痛哭の敗戦。 翌年元旦の新聞は「建国以来、かくも悲惨な正月があろうか」と書いたほど日本はどん底にうめいた。

 あれから50年、懸命に働き、学び、豊かな国になりつつあったその時、阪神淡路大震災の衝撃。リビアのカダフィ大佐は「震災は神が与えた報復である」と 言い放った。踵を接してサリン事件。人間の尊厳を完全に否定したあまりのおぞましさ―。
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 そして今、日本は3度目の奇跡への正念場にたたされている。戦後66年目の3月11日、東日本を襲ったM9の大地震、想像を絶する巨大津波、そして何より も凶々しい原発事故の三重苦は、明治維新も戦後復興も足元にも及ばないものとなった。

 石原慎太郎・東京都知事はこう言い放った。「津波は日本人の我欲を洗う天罰だ」(3月17日)。この発言は後日撤回されたが、「神の報復(カダフィ大佐)」 といい、「天罰(石原知事)」といい、日本人を傷つけてあまりある。だが私たちは決してひるんではいない。思いやりの溢れた共生の社会を再構築することが、 3度目の奇跡を成し遂げる原点となることは間違いない。
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 その原点の一つは、いのちを最大のテーマとする医療とどう向き合うかということだ。世界に冠たる日本の平均寿命も、ありていに言えば、「生かされている 高齢者」の人口比率が大きいことを意味しているのではないか。このことを、はからずも東日本大震災の避難ニュースはおしえてくれるものとなった。

 被害地の施設から、介護者に護られながら無事だった次の施設や病院へ運ばれてゆく高齢者たち。どんなに人手がかかろうとも震災弱者そのものである高齢者を 見捨てることは絶対できない。いのちの重みを実感する人たちの懸命な姿。病院長が訴える。「人手がたりない。資格などなくてもいい。ともかく人手がほしい!」。 この痛切な訴えは重くのしかかってくる。人手がなければ、絶対生き延びられない痛烈な現実。が、私たちは老若共生の社会構築へ第一歩をふみださねばならない のだ。

 もう一つの原点はなんといっても原発事故だ。神の領域に手を突っ込んでしまった果ての煉獄である。事ここに至って、専門家(東電の無能幹部らを含め)や 学者(御用学者といわれる者を含め)はじっと俯いて事故に背を向けているだけであった。そして、やっと語りはじめたかと思うと、難解で馴染みのない専門用語 を乱発しては、安全神話に振り回されて頭をかかえている始末。

 そんな時、私たちは一筋の光りをみた。「センバツ」大会の選手宣誓をした創志学園(岡山)の野山慎介主将の言葉だ。彼は阪神淡路震災の年生まれ。元気 いっぱい、こう宣誓した。「がんばろう、日本。生かされているいのちに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーします」。

 原発事故との戦いはまさに生かされているいのちの重みを実感するところから始まるのではないのか。このことを自覚する専門家や学者が何人いるだろうか。 「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」ように、私たちは今、16歳の少年から元気をもらって歩き始めようとしているのかもしれない。

 
 
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