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「胃瘻」というのをご存知だろうか。「いろう」と読む。口から食べることが出来ない時、栄養物を流しこむ管をつくり、流動物
を胃内に直接流しこんで栄養補給をする技術だ。
これは30年ほど前に開発され、リスクが少なく手軽にできることから、広く普及したという。現在、口から食べ物を摂れない約40万人が胃瘻(以下「胃ろう」
と表記する)を造設し、生命を維持している。
施設で差はあるが、1人の胃ろう患者には年間ざっと400万円の公費と100万円の自己負担が必要だ。全国40万人の胃ろう患者のうち、植物状態にある人が
3割を占めるとすれば、毎年6000億円が使われていることになる。
この数字を紹介し、安易な「胃ろう」はやめてはどうかという元自治医大消化器外科教授の笠原小五郎医師はこうも指摘する。「胃ろうを作らなければ患者の多く
は輸液(栄養を補う高カロリー輸液の点滴)を受けつつ数ヶ月以内に『飢えや渇きもない』安らかな表情で、枯れるような平穏な死を迎える」(朝日新聞「私の
視点」平成23年1月7日付け)。
もしそうなら、胃に穴をあけて栄養を送る必要があるのか?胃ろうは安易に作られすぎるのではないか?―。が、そう単純にはいかないのである。ここには、
私たち一人一人の心に終末期医療が重苦しく問いかけてくるのだ。
笠原医師は「寝たきりの高齢者が、回復の見込みもなく、胃ろうによる栄養補給で生かされているのを見て衝撃を受けた」という。
元介護老人保健施設長の木村範孝医師はこう指摘する。「まっとうな判断能力がある患者なら、自身の尊厳を保つためにも、胃ろうをつくってまで植物状態を
続けることをきっぱりと拒否する人もいるであろう。しかし認知能力が失われてからでは意思を確かめようがない」(朝日新聞「私の視点」平成20年5月28日)。
人は誰でも健康な長命を願い、他人に迷惑をかけないで逝きたいと思うが、医療枝術の進歩は常に私たちにどう生き、死ぬかについて新たな課題を提示している。
だが、そんな思いなど払拭してあまりある、みごとな天寿をまっとうした人の姿を思い返す。
一人は女優、高峰秀子である。「死んだらそれまでよ。お葬式はやらない」と言い残して、「さらりとシャバに別れをつげた」(「追想録」)という。
もう一人は漂泊の俳人、種田山頭火である。「日記」にこう書いている。「私の念願は二つ。ただ二つである。ほうとう(放蕩)の自分の句を作りあげること。
そして他のひとつはころり往生することである」。彼は一草庵(松山)で友人との句会の夜、酒に酔って独り隣室で横になって、「脳溢血でくたばった」のである。
ころり往生とはこのことであった。
前掲の笠原医師によれば「欧米では食べられなくなったら『寿命』、日本では『胃ろう』という短絡的な思考がゆるされてきた」といい「これでいいのか―」と
問い掛ける。
人々は生命への畏敬の念をいだきながら「寿命」か「胃ろう」かという二者托一を迫られる事になるのだが、この岐路に立たされた時、人は延命医療を中止して
肉体に管をつないで植物状態になって生かされることになりたくない、と思っても、すでに自分の判断が出来ない情況に追い込まれていることが多い。
胃ろうは介護者の負担を軽くする便利な方法であることは論をまたない。そうした延命治療の中止そのものが、生命を軽く見るものであるという批判もまた
根強いことは否定できないのである。そうした時、私たちは「岐路」で困惑することのないように「事前指示書」「エンデングノート」「遺言書」といった手続き
を用意しておくことが不可欠となろう。
いまや終末医療における胃ろうの在り方を考える時が目の前にきているのである。
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